トルコのインスタンブールは好きで何回も行きました。東洋と西洋の文化の交差点ですね。そこで興味深い市場を見つけました。
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トルコのスパイス市場
イスタンブールの中に市場はたくさんあります。その中で印象的だったのが、エジプシャンバザールです。別名「スパイスバザール」。ここはなんと16世紀に作られた歴史ある市場なんですよ。品揃えが豊富で、様々なスパイスを見ることができます。「ここは、シルクロード交易の通過点だったのだ!」と強く感じさせられました。ここを経由して、熱帯アジアのスパイスがヨーロッパに運ばれたということを想像するとロマンティックですね。地中海・ヨーロッパ地方の人々には、様々なスパイスは遠い異国からくる珍しい宝物だったのです。
ローマ時代
さかのぼると、ローマ時代、主に使われたスパイスはコショウでした。古代ローマでは「コショウは同じ重さの金と同じ価値がある」とまで言われたそうです。原産地のインドからローマまで、遠いところを陸路で運ばれていたのですね。
中世
中世時代、アラブ文化の影響によってヨーロッパ全域の富裕層の食事にコショウ以外のスパイスも使われるようになりました。その上、中流階級が使い出したことが手伝って、スパイスは広がったのです。数あるスパイスの中でも、コショウはとくに消費されていたのですよ。
厳しい冬
冷蔵庫のないヨーロッパの中世では、当然、肉の効率的な冷蔵または冷凍保存方法はありませんでした。それが理由で、肉を食べるごとに逐一動物は屠殺されていたのです。しかし、それは暖かい時期だけであって、冬になると事情がだいぶ違ってきます。
ヨーロッパの冬は厳しいです。ヨーロッパの都市と日本の都市、または近隣で、緯度が同じようなところを書いてみますね。
- ローマ(北緯41.5度) ー 青森(北緯40.5度)
- パリ(北緯48.5度) ー 稚内(北緯45.4度)
- ロンドン(北緯52度) ー 樺太中部
- コペンハーゲン(北緯55.7) ー 樺太よりも北
ヨーロッパの厳しい冬が想像できるでしょうか。当然、その冬の間は、家畜に与える飼料が少なくなります。その理由で、家畜を飼育しておくことが困難になるのです。暖かい時期のように、肉を食べるたびに屠殺することができなくなります。だから、家畜を減らすためにも大量に屠殺し、その肉を保存したのです。
二つの肉の保存方法
肉の保存方法は二つ。
1)肉を乾燥することによって保存する
2)肉を塩に漬けることによって保存する
1)の「乾燥肉」ですが、北ヨーロッパでは乾燥した風に当てる、南ヨーロッパでは直射日光に当てることによって肉を乾燥していました。しかし、この方法では肉の風味がかなり飛びます。しかも、食べる時点になって肉をお湯で戻しても、食べるにはとても固い代物だったのですよ。「風味のない固い肉」。僕など聞いただけで、とても食べる気になりません。
2)の「塩漬け肉」は現在よく作られる「塩漬け肉」とは違います。日が経つにつれて腐るため、いや〜な腐敗臭がするのです!当然、味も変になるのです。しかし人々はその肉を、我慢して春まで食べ続けなければならなかったのですね。この「塩漬け肉」、現代の感覚では、はっきり言って「マズイ」どころか、食用禁止ですね。
コショウの登場(狂気の執着心)
その肉の臭い消しのために最適だったのが、コショウなのです。
このコショウを使うと、臭い消しにもなる、そして、保存にもいい、つまり、臭い消しと防腐剤がセットになっているものだから、「これなしでは絶対に生きていけない!」と、狂気の執着心までも持ちました。
ちなみに、僕は高校時代にこの香辛料交易の歴史を世界史で学んだ際、世界史の先生に「ヨーロッパでは保存の問題で腐りかけの肉を食べていた。だから、臭み消しにコショウは欠かせないものだった」と聞いたのを鮮明に記憶しています。「腐りかけの肉?ホントかな?」と思っていました。しかし、あとで調べたらホントでしたね。
納税もコショウ
中世ヨーロッパでは納税をコショウで行っていたところもあるそうですよ。それだけ珍重されたのですね。この頃は、「コショウのように高い」という言い回しがあるくらい、もっとも高い香辛料だったのです。遠く、インド沿岸から中東、地中海を通って、西ヨーロッパに持ってくるのですから、そりゃ〜各地の商人の利益を上乗せされてますよね。当然コショウは高価になります。そのため、貨幣経済が未発達の中世には交易や贈り物として使用されたこともあるのです。当然、貴族や商人たちの富のシンボルとなっていました。「どうだ!俺はこれだけコショウを持ってるぞ!」という感じでしょうか。
ベネチアの繁栄もスパイスから
この時代、コショウが高価だった理由は簡単です。コショウがインドからヨーロッパに入るまでに、アラブ商人、続いてベネチア商人の手を通り、値段が操作されたことが原因です。15世紀にヨーロッパの香辛料貿易を牛耳ったのはベネチアです。「千年共和国」と呼ばれていたベネチアの繁栄も、コショウを代表とする東方のスパイスが作ったのですね。この時期、コショウ以外にもスパイスは普及します。シナモン、ショウガ、パラダイス・グレインなどです。中世のソースには、5つから6つのスパイスを使うことが多かったそうです。この頃、ベネチアと共に、スパイスの価格や供給を牛耳っていたのは、トルコ(オスマン帝国)です。このトルコ(オスマン帝国)の支配を逃れるために、ポルトガルやスペインは海路による交易ルートを探したのです。
大航海時代
ポルトガルやスペインが遠方への航海に力を入れたのにはさまざまな理由があります。そのひとつに、トルコ(オスマン帝国)とベネチア経由でないルートで、香辛料を求めて直接アジアに進出したかったというものです。つまり、「オスマン帝国やベネチアの連中の裏をかいて香辛料を手に入れようぜ!」と思ったのですね。
陸路での貿易ルートの地図。赤い色のルートがシルクロード。青い色のルートが香辛料貿易のルートです。どちらもヨーロッパに行くルートはトルコ(オスマン帝国)にはばまれていますね。トルコ(オスマン帝国)を通らないと、どうしてもヨーロッパに東方のものを運べません。
コロンブス
コロンブスがスペインに援助され、トウガラシやバニラの地であるアメリカ大陸に到達したのが1492年です。
ヴァスコ・ダ・ガマ
ポルトガルより、ヴァスコ・ダ・ガマは1498年にインドに到達しました。
インドのカリカットに初めて降り立ったヴァスコ・ダ・ガマの船員である2人の囚人が言った言葉が有名です。現地人に「なぜインドに来たのか?」と問われ、「キリスト教とコショウのため」と答えました。
その後、スパイス貿易はこれらのポルトガル、スペインに独占されることになるのです。
オランダ
その後の香辛料貿易に台頭してきたのはオランダです。オランダは、ポルトガルのリスボンでの香辛料買い付けを、スペイン・ポルトガル両国国王フェリペ2世により禁止されます。つまり、スペイン・ポルトガルがオランダに嫌がらせをしたのですね。その当時、東方貿易の中心はポルトガルでしたから、オランダはポルトガルから交易品を買うしかなかったのを知った上の嫌がらせ。たまりかねたオランダは「自分たちの力でアジアに行くぞ!独自に香辛料を持ってくるんだ!」と意気込みます。
1596年6月、インドネシアのバンテンの水平線に4隻の船が見えました。オランダ船が、港の正面に現れたのです。これには、現地駐在のポルトガル人もかなり驚きました。そうです、コルネリス・ド・ハウトマン率いるこの4隻、オランダ艦隊が初めてアジアに到着したのです。その後、多くのオランダ船がアジアの香辛料を求めて航海します。それらを統一して1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されたのです。
そういう貴重なスパイスでしたが、スパイスが他の熱帯諸国でも栽培されるようになり、価格は下落。その後は、入手されやすくなったということです。
今、手軽にスーパーなどで手に入る香辛料、コショウなど、こういう歴史を持っていたのですね。
胡椒の語源
胡
「胡」は西方、北方、の遊牧民族の意味があります。ちなみに「胡夷」は、中国から見て異なる文化を持つ民族。
椒
「はじかみ」
さんしょう、のこと。山野に自生する。枝に刺があり、葉と実には香気と辛味がある。
胡椒
木の名前。インド原産。球体の赤い実を結び、その実から粉末の香辛料を製する。日本では「胡椒木」と言ったりします。