毎年のように記録的な暑さの夏がやってくるこの頃。漢詩の中には暑い気候が出てくるものがあります。それが王世貞の「避暑山園」(しょをさんいんにさく)です。
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王世貞の「避暑山園」(しょをさんいんにさく)
今回は王世貞の「避暑山園」(しょをさんいんにさく)です。
まず読んでみましょう。
残杯移傍水辺亭 (ざいぱいうつしそう すいへんのてい)
暑気衝人忽自醒 (しょきひとをついて たちまちおのずからさむ)
最喜樹頭風定後 (もっともよろこぶ じゅとう かぜさだまるののち)
半池零雨半池星 (はんちのれいう はんちのほし)


王世貞の「避暑山園」(しょをさんいんにさく)の意味
飲みかけの杯を持って 池のほとりの亭に移る
ひどい暑さだ 酔いもたちまち醒めてしまう
嬉しいのは 樹々の梢に夜風が吹いてはたとやみ
池の半分に雨雫が落ち もう半分に星影が映ること


王世貞(おうせいてい)とは
王 世貞(おう せいてい、嘉靖5年11月5日(1526年12月8日)- 万暦18年11月27日(1590年12月23日))は、明末の文人・政治家。

王世貞(おうせいてい:1526ー1590)は太倉(江蘇省太倉県)の人です。世宗の嘉靖五年(1526)に生まれます。嘉靖二十六年(1546)、二十二歳で進士に及第し、山東副使、南京刑部尚書などを歴任します。李攀龍らとともに復古主義をとなえました。
「文は必ず西漢(前漢)、詩は必ず盛唐。大暦以後の書は読む勿(なか)れ」と主張しましたのです。
盟友の李攀龍とともに後七子と呼ばれました。
中国明代、嘉靖年間(1521~1566)の七人の文人。李夢陽ら前七子に対していう。李攀竜・王世貞・謝榛・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫。文は秦漢、詩は盛唐を重んじた。こうしちし。

「避暑山園」(しょをさんいんにさく)の背景
詩題の「山園」(さんえん)は山中の庭園のことですね。山中の別荘に招かれたときの作品だと思います。山中の別荘とはまた風情がありますね。
「残杯」とは飲みかけの杯ですね。想像するに、宴会の途中に杯をもったまま庭の池にあった亭に行ったのでしょうね。
ここで、こう感じます。
暑い!酔いも覚める!
そして後半は亭で感じたことです。
なんともいえない涼しさを感じた、、、、
庭の木の梢に風がさっと吹いて止んだ直後、池の半分に梢の雨雫が散り、もう半分に星の光が映っているではないか。
大変センスのある詩句ですが、結びの部分「半池の零雨 半池の星」は白居易の「暮江吟」にある「半江は瑟瑟 半江は紅なり」の句を踏まえています。
一道残阳铺水中,半江瑟瑟半江红。
可怜九月初三夜,露似真珠月似弓。
一道の殘陽 水中に鋪(し)き,
半江は 瑟瑟(しつしつ) 半江は 紅(くれなゐ)なり。
憐(あはれ)む 可(べ)し 九月初三の夜,
露は 眞珠の似(ごと)く 月は 弓に似たり。
16世紀、中国の気候
16世紀の中国の気候は、小氷期の影響を受けて、特に洪水が頻発したらしいです。ヨーロッパで中世の温暖期と呼ばれた時代には、中国北部で干ばつ、南部で洪水が多かったのに対し、小氷期にあたる16世紀以降は、中国全域で洪水が多発したという研究があります。
16世紀の前半は冷夏だったという記録もあります。
16世紀は、地球の気候変動において、小氷期と呼ばれる寒冷な時期と、中世の温暖期と呼ばれる比較的温暖な時期の移行期に位置づけられます。この時期の気候変動は、太陽活動の変動や火山活動の影響が指摘されています。
う〜ん、今よりも夏は暑くないと思って良さそうですね。
夏の漢詩でしょうが、昨今の暑い日本の夏よりも気温は低かったと思われます。

王世貞はどのような酒を飲んだか?
中国には、醸造酒と蒸留酒があり、「黄酒(ホワンチュウ)」、「白酒(パァィ ヂ(ォ)ウ)」と呼んでいます。
蒸留酒の白酒(パァィ ヂ(ォ)ウ)は、元の時代 (1279~1368年)に南より伝来しました。
この王世貞が飲んだお酒は「黄酒(ホワンチュウ)」か「白酒(パァィ ヂ(ォ)ウ)」かわかりませんね。
