「桜島小みかん」ってご存知ですか。
先日、鹿児島の友人から「桜島小みかん」が送られてきました。鹿児島で育った僕にはとても懐かしいものです。食べてみたらとても美味しい!甘みと酸味のバランスが絶妙です。今回はその「桜島小みかん」をご紹介しようと思います。
Contents
「桜島小みかん」とは
「桜島小みかん」は、「サクラジマミカン」の通称です。
サクラジマミカン(桜島蜜柑)は、鹿児島県の桜島で栽培されている柑橘類の一種。サクラジマコミカン(桜島小蜜柑)とも呼ばれる。品種としてはキシュウミカンとほぼ同一である。同じ品種が桜島を望む鹿児島湾沿いの霧島市福山でも栽培されており、こちらは単にコミカン(小蜜柑)と呼ばれる。
「桜島小みかん」の産地・桜島
「桜島小みかん」のとれる桜島は鹿児島のシンボルとも言われている風光明媚な火山です。桜島は北岳・南岳の2つが合わさる複合活火山です。今も噴煙をあげているんですよ。海にぽっかり浮かぶ火山は絵になりますね。
以下、桜島のデータです。
- 高さ:1.1117メートル
- 周囲:52キロ
- 面積:約80キロ平方メートル
桜島の大噴火
桜島は活火山ですが、何回か大きな噴火をしています。その中で歴史に残る大きなものとして二つの噴火が有名です。詳しくは気象庁のHPをご覧ください。
安永の噴火(1779〜1782年)
江戸時代中期の安永8年10月1日(1779年11月8日)14時頃、鹿児島県の桜島で、記録の残る中では最大規模とされる安永大噴火が発生しました。 桜島北東の沖合ではその後1年以上にわたり海底噴火が発生し,安永諸島と呼ばれる新しい島々が出現したのです。現在でもその中の4島が残っています。
津波の発生は6回記録されています。そのうちの3例は爆発をともなっていました。
1781年4月には,突然の爆発で漁船が吹き飛ばされ,波高10数mの大きな津波が発生しました。死者・行方不明者は約20人です。 結局、安永噴火による死者は153人、その大半は島の南、南東海岸の集落に集中しています。
その後の鹿児島/かごしまふり(鹿児島ぶり)
かごしまふり(鹿児島ぶり)という本の中で桜島の様子が描かれています。桜島では猟が禁じられていたのですね。
講釈師伊東凌舎の薩摩見聞記。鹿児島藩主島津斉興のお気に入りだった凌舎は、天保6年(1835)、国許に帰る斉興の一行に加わって鹿児島に赴き、到着後は藩主の領内巡覧に従って薩摩各地を見て廻りました。凌舎は薩摩のさまざまな風俗慣習を絵入りで紹介していますが、桜島についても、桜島の神を怒らせて噴火を起こさないよう、同島では狩が禁じられ、鉄砲も禁制(発砲禁止)であると記しています。天保9年序。全1冊。
大正3年の噴火(1914〜1915年)
桜島は多くの噴火を繰り返していますが、その中でも大きかったのは、大正 3(1914)年 1 月 12 日(月)朝に始まった桜島の大正噴火です。これは、明治維新以降に日本国内で経験した最大の噴火だと言われています。
桜島は鹿児島県の中央にあるので、被害を受けたのは桜島の人々ばかりではありませんでした。噴火の影響と被害は宮崎県南部を含め広範囲に及んでいます。
大隅半島には大量の火山灰が堆積し、土石流や洪水も発生するなど深刻な被害が起きました。薩摩半島側の鹿児島市と周辺では 1月12 日夕方に発生 した大地震で多数の死傷者が出ています。大正噴火では、噴火や地震により58名の犠牲者を出し、流出した溶岩は大隅半島との間の400mの海峡を埋めて陸続きになりました。
詳しくは内閣府防災情報をご覧ください。
大正大噴火・動画でもどうぞ
大正大噴火で「桜島小みかん」は大被害にあった
大正3年1月12 日の大噴火でほとんどの「桜島小みかん」が枯れてしまいました。大噴火の威力は大きいです。生き残った木があり、100本近い古木が現在も点在しているということです。
最も古い木の樹齢は推定220 年以上で、幹周り縦12.4 m、横10.2 m、高さ6.2 mもある木が存在しています。
大正大噴火で生き残った木に20000個のみかん?
「桜島小みかん」は、「世界一実のなるみかん」と言われ、多いものは一本の木に20000個ほど実をつけるのですよ。(栽培方法としては、1979年に「屋根掛けハウス」が導入され、現在の栽培方法が定着しました。)
桜島の松浦町には、世界一の小みかんの木があります。平成15年、樹齢200年ともいわれる巨木に、なんと「24,649個」ものみかんが成りました!
以前は桜島は登山できた!
あたり前のような話ですが、桜島への登山は禁止されています。何しろ今でも噴火する活火山ですからね。
桜島は昭和30年頃までは登山可能でした。しかし、南岳・昭和の両火口より2キロは立ち入り禁止区域となっており、桜島の頂上・北岳(御岳)の1117メートルもその範囲内です。
昭和初期の頃は県内各地の中学校,青年団などの桜島登山駅伝走が盛んだった時期があります。また当時市内の小学5年生の殆ど全員が桜島登山に参加していたといいます。
実は僕の母(昭和8年生まれ)も、なんと桜島に登り頂上でお弁当を食べたという思い出があるそうです。
アーネスト・サトウ(幕末の日本通外交官)、ウォルター・ウェストン(日本アルプスを世界に公表した名登山家)、徳富蘆花(小説家)など、実際に桜島に登山しているのですよ。
昭和15年桜島登山の写真。火口の底まで行けたようです。昭和30年(1955年)に北岳で死傷者が出たことを受け、登山が禁止されました。
「桜島小みかん」は世界一小さいみかんだ
鹿児島県の特産品で桜島で生産されているギネスブックに認定された世界一小さいミカンなのです。
僕は鹿児島出身なので、小さい時からこの「桜島小みかん」はよく見ていましたが、初めて見る人は「小さい!」と驚かれるようです。
桜島小みかん実食!
「桜島小みかん」の箱
「桜島小みかん」はJAかごしまみらいのものです。箱のデザインも小さなみかんに合わせてかわいいですね。
「桜島小みかん」はきれいに箱に入っています。
JA鹿児島みらいは、鹿児島市全域をエリアとして地域に根ざした事業を展開している都市型JAです。管内では昔から桜島小みかんや桜島大根、軟弱野菜、肉用牛など都市近郊の地域性を活かした様々な農畜産物が生産されています。
「桜島小みかん」の味
「桜島小みかん」は「みかんは小つぶ 甘さは大つぶ」というキャッチコピーで販売されています。果実の直径が5㎝足らず、重さは1個当たり50g程度です。皮を剥くとかわいい姿が出てきました。
タネは少々ついています。
光センサー撰果とは
この「桜島小みかん」の箱には「光センサー撰果」と書かれています。
これは「光センサー選果機」(一般的な記述、選という漢字を使います)というものがあり、果実の一つひとつに電磁波の一種である近赤外線という光を照射して、果実の外観(色・形・傷・サイズ)や、内部品質(糖度・酸度・浮き皮等)をコンピューターで自動判別することができる機械です。どうりで、箱の中の「桜島小みかん」はどれもきれいで色艶や大きさも同じサイズです。
「桜島小みかん」は皮を剥きやすい
「桜島小みかん」は手のひらにすっぽり入る大きさのために皮を剥きやすく感じます。そして浮き皮で果皮は薄猪で、剥きやすいです。小さなお子さんでも簡単に向けるのではないでしょうか。
器は丹波焼
「桜島小みかん」は甘くジューシーだ!
実際に食べるととても甘さを感じます。甘いだけでなく酸味とのバランスがいいので、僕はこの「桜島小みかん」は大好きです。糖度は12度以上です。
一般的に、甘くて美味しいと感じるみかんの糖度は、11度以上ですから「桜島小みかん」は甘い部類ですね。
実際に食べるとこの甘味と酸味のバランスが絶妙です。懐かしいおいしさ!そして、とてもジューシーです。
機会があれば、一度お試しください!
みかんは寒くなると糖度が上がります。それゆえに12月に出荷のこの「桜島小みかん」は糖度が高いのですね。そして、みかんのおいしさは「甘さ」だけではありません。甘さに加えて、適度な酸味を必要です。このバランスでおいしさを感じるのです。ちなみに夏のみかんは酸味が強いです。
「桜島小みかん」の歴史
この「桜島小みかん」がどこから来たかについては諸説あります。ウィキペディアからその3つの説をご紹介します。
- 島津義弘が文禄・慶長の役の際に朝鮮半島から持ち帰ったとする説(朝鮮半島では気温が低いためミカンの栽培は行われていないのでこの説は誤りであろう)
- 関ヶ原の戦いの後に紀伊国から持ち帰ったとする説
- 肥後八代の高田みかんが伝わったとする説
3番目の節が有力なようです。
徳川家康の家臣であった山口直友が賞賛したことから名産品と認められ、1603年(慶長8年)には島津忠恒が家康に献上している。古くは向島蜜柑または赤蜜柑と呼ばれていたが1658年(万治2年)頃から桜島蜜柑と呼ばれるようになった。1779年(安永8年)の安永大噴火や1914年(大正3年)の大正大噴火によって大きな被害を受けた(諸説あり)。
桜島観光(桜島に行くには)
鹿児島市内から「桜島フェリー」に乗り行くのがおすすめです。早いし、海上移動の旅情も味わえますよ。
リンク先「みんなの桜島」の情報を参考にしてください。