エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|44「旅する音楽家」

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今年もまた音楽家らしい正月を迎えてしまった。

大みそか、夜十時にルーマニアの文化宮殿に到着。ここは僕の住んでいる所でオーケストラの本拠地だ。東京の自宅を出たのが日本時間三十日の朝六時。新調したばかりのパスポートを胸に足取りも軽く、新鮮な気持ちで出国したのが幻のように感じる。

長い行程だった。今回は中継地のフランクフルトで一泊した。十二時間近いフライトでコチコチになったマリオネットのような体を、心地よいベッドでいったん解き放ち、できるだけ時差を戻す。さらにここからブカレストへ、そこからまたドライバーの運転する車で雪の降り積もる僕の街へ向かうのだ。移動だけで丸二日かかった。

セントラルヒーティングの暖かい部屋の中でのんびり荷物を解いていると、いきなり爆音が聞こえた。市民が花火をあげお祭り騒ぎをしている。年が明けたのだ。二〇〇六年グリニッジ標準時プラス二時間の正月。「ガショー」と自分に短くつぶやく。音楽を生業にした以上、こういう生活が続くのだろう。諦観(ていかん)の念。そういえば、日本の桜も十五年くらい見ていないな。

昔から音楽家に旅はつきもの。モーツァルトは元祖ステージパパみたいな父親とともに、六歳からヨーロッパ各地を転々とした。馬車の中で生活するような毎日だっただろう。体も伸ばせなかったのか、成長不良なのか、身長が一五〇センチにも満たなかったらしい。

ドイツ国民オペラの祖、ウェーバーは病苦を押して演奏旅行した末、ロンドンで亡くなった。チャイコフスキーもドボルザークも米国に旅し、スペインの作曲家アルベニスは九歳で家出、その後南米に向かった。この人はちょっと病癖ともいえる。ともかく、音楽家は旅をする。かのブレーメンの音楽家たちも旅をしていたではないか。

しょっちゅう旅をしていると、やはりしょっちゅう旅をしている音楽家の知り合いにばったり、という場面もしばしば。パリの空港の免税店で香水のボトルを手にしたら、「カルバンクライン エスケープ! いまだにシンヤのお気に入りね」。CIAにでも追跡されていたのかと、ぎょっとして振り返ると、モーリーがいた。彼女は香港出身のバイオリニストで、数年前まで米国の同じ学校で教えていた同僚だった。クリーブランド交響楽団のツアーでチェリストの夫とフランスに来たのだそうだ。「アデュー!」。楽器ケースを肩に去っていった。次にまた会うのはどこだろうか。

一月三日、仕事始めに事務所に行く。やっぱりホームグラウンドは落ち着く。きれいに掃除され整頓された部屋、使い慣れた自分のデスク。凛然(りんぜん)とした空気が勤労意欲をわき立たせる。旅の疲れを取り、時差も早く解消しなくっちゃ。

そのうち監督のカザンがニコニコして入ってきた。「シンヤ、新年おめでとう! いやぁ、いいニュースがあるんだよ。近々フランスに合唱団と一緒に行くっていうのはどうだい?」。旅程を見ると、信じられないくらいハード。本来合唱指揮者でもある彼が行くべきものだが、代わりに僕に取り入ろうとしているのは明らかだった。僕は首を左右一八〇度振って答えた。「だめだね。もうしばらくここより西には行かない。時差がきついからね」


2006/01/19 

追記

これは2006年に南日本新聞に投稿したエッセイです。当時も今も日本からルーマニアまでは直行便がなく、どこかで乗り換えて行くしかないです。多い時には一年で国際線に36回も乗ったことがあります。さすがに、時差などで疲れました。最近は体力と相談して、日本ヨーロッパ往復は少ない回数にしています。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/

\珍しい曲をたくさん収録しています/

 

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