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「禁酒法」の終焉
第32代米国大統領・フランクリン・ルーズベルトは、1933年3月、「ボルステッド法」(禁酒法施行の具体的内容を定めた法律)のカレン・ハリソン修正案に署名しました。その結果、「容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造」は合法化されることになったのです。
そして、1933年12月5日、アメリカ合衆国憲法修正第二十一条の成立によって「禁酒法」は終焉を告げました。これは1920年から1933年までの13年10ケ月19日7時間32分30秒間続いた「高貴な実験」だったのです。
「禁酒法」廃止時の写真/シカゴ
1933年以降
州が強い権限を持つアメリカ合衆国では、日本とは違い中央集権的に法は実行されないのです。1933年の取り決め、つまり「禁酒法」廃止はあくまで合衆国連邦の事であり、州によっては1933年以降も禁酒法が持続されたところがありました。完全に禁酒法が撤廃されたと宣言してもいい年は、なんと1966年のミシシッピ州での同法廃止まで待たなければいけなかったのですよ。
実は、今でもアメリカ50州の内33州では州内の自治体にアルコールの販売の是非を委ねています。つまり、「私たちの郡ではアルコールは禁止にしましょう」と議会で決定したら、その郡は禁酒郡になるのです。
それは、Dry Towns(禁酒郡) などと呼ばれています。
赤いところが「禁酒郡」
飲酒オッケーのところでも、ワシントンポストによると、サンフランシスコ・ワシントンDC・フィラデルフィアなどでは公共交通機関にアルコールの広告を出すことを原則禁止しています。
僕がフィラデルフィアに留学中の80年代後半は、ビールなどの弱いアルコールは比較的簡単に買えました。しかし、ウイスキーなどのアルコール度数が強いものの購入時に必ず身分証明書の提出を要求されていた記憶があります。
それではこの「禁酒法」の成立そして撤廃に至る歴史を簡単にわかりやすく書こうと思います。
ビールが大量に積まれたメイフラワー号
1620年、イギリスから新大陸に向かった移住船「メイフラワー号」の乗客たちは、1日もかかさず酒を飲んでいました。おびただしい量の酒を買い込み、毎日飲んだそうです。その目的は「元気で溌剌とした健康的な日々を送るため」なんですよ。酒が不足すると、体調が崩れると信じていたのですね。
「メイフラワー号」の乗客はピューリタンと言われた人々です。宗教の自由を求めて新大陸に向かったのですね。いわば信仰の人たちです。グループの中でも「お酒は健康にいいから飲もう」という意見と、「モラルに反するからお酒は控えないといけない」という意見が常にあったようです。(お酒を完全に禁じよう、という考えはなかったみたいですね)しかし、この後の新大陸植民地時代には、「お酒は神によって祝福された飲み物」という考えが定着していくのです。
初期の新大陸へのこういう移住者たちは、イギリス脱出時に過去の古い習慣を一切捨てて新しい生活にしようとしたと思いがちですよね。しかし、実際は逆で、可能な限り古い習慣を持ち込もうとしたのです。その象徴たるものが、飲酒です。
北米大陸に到着しても停泊していた船の中では、ほどなく食料もビールも無くなってきました。「しかたなく」飲んだのが、森の泉から汲み上げた水です。その後、彼らは新大陸の水が美味しい、と気づきます。「しかたなく」飲み始めたのは、彼らが住んでいたイギリスの井戸水は汚れており、生水は危ないと思っていたからなんですよ。
その後、停泊して越冬しているうちに、伝染病が蔓延します。その時に「栄養のあるもの」つまり、「ビール」が必要だ、と強く感じたのだそうです。
ビールを持っていた船の乗組員(乗組員はピューリタンではなく、新大陸に人々を送った後、イギリスに戻ります)は、そういう彼らを冷たく傍観していたらしいですよ。
飲酒に対して寛容な社会に
1700年頃、新大陸はますますお酒に寛容な社会になります。まず朝一杯、朝食中にはスモール・ビール(アルコール度が非常に低いビール)を飲み、そして職場に向かいます。
午前11時になると「ザ・イレブンズ」という休憩時間があり、酒場に走りました。「ザ・イレブンズ」が終わるとランチタイムにワインやウイスキーを飲みます。職場に戻った後も飲酒は許されていました。すごいですね。これがオフィスワーカーの1日なんですよ。肉体労働者もビールやリンゴ酒をたらふく飲みました。これは彼らの働く環境からすると危険な行為ですよね。
「セイント・マンデー」(聖月曜日)
日曜日は一日中教会に閉じ込められたまま説教を聞かないといけかったので、翌日の月曜日に終日酒場で過ごすことも多くありました。それを、「セイント・マンデー(聖月曜日)」と呼んだのです。
その頃は、家庭内でも子供に躊躇なく酒を飲ませている親も多かったのですよ。
リサイクル酒・ラム酒
カリブ海の島々で栽培されたサトウキビがヨーロッパに砂糖ブームを起こします。「スパイス」という立場の砂糖から、食卓の必需品となりました。
サトウキビからでたゴミをどうしたらいいのか
ラム酒はサトウキビから砂糖を作る過程ででた廃棄物で作り始めました。これが初めて新大陸で作った「自分たちの酒」になったのです。
余剰穀物で作った酒
合衆国独立戦争後(18世紀後半)、西部で穀物がたくさん余りました。そして、穀物の販売価格が下落することが起きたのです。
過剰生産されたトウモロコシを腐らずに運べる方法はないか、と開拓者たちは考えました。その結果生まれたのが、新しい蒸留酒・コーンウィスキーです。これだと西部から東部に運ぶにも腐ることはありませんね。
この頃のラム酒は、政府からの酒税がかけられ、カリブ海から運ぶ運送費も加算された影響で価格は高くなっていました。そして、安いコーンウィスキーに太刀打ちできない状態になります。そして、このコーンウィスキーが「我々の酒」「国酒」として新しく浸透していくのです。朝、昼、夕、に一杯と飲んでいた時代は弱い度数の酒を飲んでいたのですが、ここに至って強い度数のコーンウィスキーを機会があるたびに大量に飲むということがアメリカ社会に浸透していきます。
これは現在のバーボン・ウィスキーのことですね。
貧困な移民の生活
19世紀中頃、大量のドイツ人とアイルランド人が新大陸を目指します。ドイツには政治紛争、アイルランドにはジャガイモ飢饉と呼ばれる問題が発生したのが原因です。彼らが貧民街とともに「第二の居場所」としたのが、「居酒屋」です。
フリーランチ
移民と居酒屋がどんどん増えたアメリカで、ビール会社の経営者たちが一計を案じます。昼休みに居酒屋に走る彼らのために「フリーランチ」という無料定食を提供したのです。タダの定食だったら儲けがないのではないか、と思われますが、、、そこは巧妙です。
ビール会社は自社系列の居酒屋なら、食材、食器、なども全て提供しました。ドイツ製のソーセージ、ピクルス、贅沢なチーズ、魚の塩漬け、これらのものが全てタダだったのですよ。
実はタダなのは、これらだけなのです。これらの塩っぱい食べ物をたらふく食べた労働者は大量にビールを飲んだのです。そして、ビールは別料金。塩っぱい食べ物で喉が渇いたので、平日の昼間だったら絶対に飲まないビールの量を労働者たちは大量に飲むようになります。こうして居酒屋が男たちのたまり場となり、当然家庭で過ごす時間は少なくなりました。
抗議運動
家庭を顧みず、そして飲酒のために問題ばかり起こす男性を見るに見かねて、ついに、1873年12月24日(クリスマスイブですね)、オハイオ州ヒルズボロに住む女性たち数十人が立ち上がります。指導者はライザ・トンプソン。元州知事の娘で、57歳。8人の子供の母親です。その後、75人を集め抗議しました。合計10日間抗議を続けたのです。この運動は「酒場十字軍」と呼ばれたのですよ。これは「家庭の保護」が大義名分で、男性の飲酒を問題視したものです。
ちなみに、この頃は女性に参政権はありませんでした。
10日間の抗議の内容
- 居酒屋に集合
- 祈りを捧げ讃美歌を歌う
- 禁酒のメッセージを読み上げる
抗議デモの後
その街では、アルコールを扱う13軒のうち、9軒が扱いをやめることにしたそうです。
その後、全米で抗議運動は様々な人々の間で展開することになります。その結果、「婦人キリスト教禁酒同盟」の結成に進んでいくのです。そして、この「酒場十字軍」は1974年全米31州に広がっていきました。
州禁酒法
禁酒活動家の活動に対して酒造業界は足並みが乱れていました。理由は、酒造業界の中で、醸造酒(ワインなど)業界と蒸留酒(ウィスキーなど)業界が客を取り合い、お互いをライバル視したことです。1919年の時点で33州が州禁酒法を成立させていました。このように、州により禁酒法が出来つつありましたが、ある州では禁止するものを蒸留酒に限定してみたり、統一されていませんでした。例えば、ジョージア州では蒸留酒のみ禁止。ミシシッピ州では個人での消費であればワインの醸造は合法でした。
所得税の導入と戦争
1913年、所得税の法案成立。「禁酒法ができたら、酒税が取れなくなり政府や社会が壊滅する」という愛飲家の主張が覆される状況ができました。その後、アメリカは第一次世界大戦に参加。敵はドイツです。ドイツ人の飲み物というイメージのビールはアルコール度数が「最高で」2.75パーセントに引き下げられました。そして、ビール醸造所への材料の供給が30%も減らされます。こうなるとビール業界は大打撃ですね。
ついに禁酒法可決
1919年、アメリカ合衆国憲法修正第十八条いわゆる「禁酒法」が議会の賛成多数で可決。実行は一年後です。
酒類取締局の写真(強面ですね)
1920年1月17日午前零時、近代国家では世界で初めて酒類の製造、販売、運搬等を禁止したのです。
またまたきっかけとなった女性の活動家
1929年、こんどは「禁酒法」を撤廃しようと女性が立ち上がります。
ポーリン・セービン(1887〜1955)は若い頃、禁酒運動をしていました。しかし、中年になって正反対の愛飲家になったのです。以下のように彼女の活動はとても人の目をひくものでした。
- 自動車パレードにより抗議
- 女性パイロットによる「小型飛行機抗議デモンストレーション」
「禁酒法」に反対デモをする女性たち(ビールが欲しい!とプラカードに書かれていますね)
1930年から「禁酒法」撤廃運動は加速する
「禁酒法」撤廃派が多い民主党が、連邦議員選挙で大多数を獲得します。
愛酒家のフランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882〜1945)が1932年の大統領選挙で大統領に選ばれます。彼の大好きなお酒は、ベルモットをたくさん入れたマティーニでした。そして、自ら、ラム酒をオレンジジュースと卵白で割ったカクテルを開発しました。それは「ヘーション・ライベーション」と呼ばれているものです。
そんな彼であるので、議会と強い関係を築き上げ、「禁酒法」撤廃に全身全霊を捧げました。
ルーズベルトといえば、第二次世界大戦に関わる大統領です。意外に最近の話と感じるは僕だけでしょうか。
そしてついに「禁酒法」廃止
1933年12月5日、アメリカ合衆国憲法修正第二十一条の成立によって禁酒法は終焉しました。
この写真は衝撃的です。どのような状況で撮影したか知りたいところです。
「禁酒法」時代のアメリカの実情に関しては、また改めて書きたいと思います。
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