2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。
それでは、学校給食歴史館の展示物とともに学校給食の変遷を見ていきましょう。
Contents
この記事のまとめ
1)この給食がでた昭和初期は、不思議な時代でした。
2)世界的な不況で、日本でも銀行の取り付けが続出、自殺者が相次ぐ一方でした。とりわけ農村は、過酷な状況にありました。貧富の差は現代よりもはるかに大きい状態でした。
3)しかし、不況などどこ吹く風の華やかな動きも、あちこちで見られました。代表的なケースがモボ・モガの流行です。そして、呉服店から脱却したデパートの商法などが盛んになりました。
昭和2年の給食
メニュー
ごはん
ほうれん草のホワイト煮
さわらのつけ焼き
ホワイト煮
ホワイト煮とは、ホワイトソースで煮たものだと思われます。
ホワイトソースは、バターで小麦粉を焦がさないように炒めてから牛乳を加えて好みの粘度にのばすものです。しかし、この時代、ふんだんにバターがあったかどうかわかりません。
ダマを作らないようにするのには結構技術が必要ですし、時間もかかります。
ホワイトソース(白ソース)は家庭でも作れる西洋料理の基本として、戦前も昭和に入ると、都会の少し「モダン」な家庭では、かなり一般的に普及していたようですよ。
謎のホワイト煮
ホワイトソースは調味料的に使うものです。この「ホワイト」の実態がホワイトソースであれば、ホワイトソース煮となりますね。
可能性は以下です。
クリーム煮
おもに野菜をゆでる、煮るなど加熱して、ベシャメルソースなどで煮たり、和(あ)えたりする野菜調理法の一種である(ベシャメルソースとはホワイトソースのことです)。材料としては、メキャベツ、カリフラワー、シャンピニヨン、ブロッコリーなどがソースによくあう。ソースに生クリーム、卵黄などを加えて、さらに味と光沢のあるソースにすることもある。クリーム煮は肉や魚料理の付け合せにするのが一般的であるが、卵、魚、貝類などを加えて、独立した料理として供することもできる。この料理は熱いうちに食べることがたいせつで、冷めるとソースが固くなり味が落ちる。
日本大百科事典より
クリームシチュー
これは日本生まれの料理です。
クリームシチューは日本流のシチュー。ホワイトシチューとも呼ばれる。牛乳や生クリームをベースに肉(鶏肉が多い)、ジャガイモ、ニンジン、タマネギなどを加えて煮込む。好みでマッシュルームやキャベツ、コーン、ブロッコリー、グリーンピースなどを入れる。
日本では1924年(大正13年)に、手塚かね子の『滋味に富める家庭向西洋料理』において牛乳とダンプリングを加えたシチューが紹介される。しかし、ほかの料理書にある当時の鶏肉のシチューのレシピでは、ホワイトソースはバターと小麦粉がベースで、牛乳が使われることはほとんどなかった。その後、第二次世界大戦後の困窮した国情の中、1947年(昭和22年)に学童の栄養補給用として学校給食のシチューに脱脂粉乳が加わるようになり、政府は当時これを「白シチュー」と呼んで広めたという。だが1966年(昭和41年)、ハウス食品から発売された粉末ルウ「クリームシチューミクス」がヒット商品となったことで、この料理の名は「クリームシチュー」として定着するに至った。なお、開発者はこの商品を作るにあたってアイリッシュシチューを参考にしながらも、給食の延長線上にあるごはんによく合うシチューを目指したという。
ウィキペディアより
クリームシチューが普及したのは戦後です。この昭和2年という年を考えると、これは違うような気がします。
それにしても、このホワイト煮は謎です。どこで食べられた給食か、そしてホワイト煮の情報を見つけた方、お教えください!
牛乳
このホワイト煮には牛乳を使っている可能性があります。
大正時代から昭和初期にかけて、これまでの牛乳製造会社の統合や合併が進み、大量生産体制が整えられていきました。今日のわが国を代表する乳業会社が次々と誕生し、牛乳の普及活動にも一層の拍車がかかってきたのです。
そして、衛生上でも、東京市営公衆食堂で起きた「腐敗牛乳販売事件」をきっかけに、東京警視庁(警視庁が当時、乳肉衛生関係を所管していた。)は1927年(昭和2年)に殺菌を義務化しています。
1933年(昭和8年)には内務省が「牛乳営業取締規則」を改正し、低温殺菌(63~65℃で30分間加熱)または、高温殺菌(95℃以上で20分間加熱)で殺菌することとしたのです。この時期、牛乳瓶の形状が統一されています。現在見るお馴染みの形ですね。
さわらのつけ焼き
これは照り焼きですね。美味しそうです!
和洋折衷の給食
この給食をみると、和洋折衷ですね。
この給食が出る昭和初期には家庭で洋食がつくられはじめ、和洋折衷の料理を食べることが多くなったのです。
ですから、このホワイト煮も給食に出たのが納得できる気がします。
\弘前のアップルパイ・美味しいです/
学校給食歴史館とは
「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。
埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。
中には多くの食品サンプルがあり、歴史的に、そして視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。
そして、学校給食に関する歴史年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。
館内案内図
学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。
学校給食歴史館の情報
- 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
- 開館時間:9時〜16時
- 入館料:無料
- 公益財団法人 埼玉県学校給食会
〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496
地図
学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。
JRを使う場合 JR北本駅から
- JR高崎線北本駅東口から約3km
- 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車
初めてのファッションショー
1927(昭和2)年(上記給食がでた年ですね)9月21日、銀座の三越呉服店で日本初のファッションショーが行われています。
銀座の三越呉服店でのファッションショーは、9月21日~23日まで開催されました。モデルには初代水谷八重子など女優がつとめています。
初代水谷八重子(1905年8月1日 – 1979年10月1日)
これは、一般よりデザインを募ったファッションショーだったんですよ。なんと革新的ですね。
初めてのファッションショーで、当時はまだ「ファッションモデル」という職業はありません。それゆえに、初代水谷八重子を始めとした、女優がモデルをつとめたのです。
その時の衣装ですが、洋服ではなく、全て新作の着物でした。
ウォーキングではなく、日本舞踊を披露したのです。こうしたショーを通して、デパートが一般的な庶民のものとなっていったのですね。
モボ・モガの流行
昭和初期の不況などどこ吹く風の華やかな動きの代表的なケースがモボ・モガの流行です。
「モボ」・「モガ」は「モダンボーイ」、「モダンガール」の略で、「モボ」はシャツにネクタイ、山高帽子にロイド眼鏡にラッパズボン、白、茶などのエナメルシューズというスタイルで町を闊歩したんですね。
特に「モガ」の登場はそれまでの女性観を一変させました。彼女等の装いは、ワンピースやツーピースの洋服に帽子が定番でした。ヘアスタールはマルセル・ウエーブと呼ばれた耳隠しです。
そして、最大のポイントは膝上3~5センチにスカートやワンピース。このスタイルは、アメリカ映画などから取り入れたようですね。この装いで銀座などの街を誇らしげに歩いたのです。
そんな姿に世間は大きなショックを受けました。当時日本女性の洋装率は1%前後、洋服自体が奇抜だったのです。その上に、日本女性が人前でひざ小僧をさらすのは初めてだったからですね。
1929(昭和4年)には、兎の襟巻が流行しました。1930(昭和5年)には狐の襟巻が人気を集めています。ファッションも変わってきてますね。
三越/昭和2年
昭和5年の銀座の喫茶店です。ケーキが見えますね。そして襟巻きは毛皮でしょうか。髪型は、マルセル・ウエーブですね。
昭和2年の流行歌
昭和の子供
作詞は久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年(明治32年)6月2日 – 1947年(昭和22年)12月26日)
大正の終わり頃、中央詩壇の野口雨情などの勧めもあり、上京。後に昭和6年コロムビアレコード入社、始めは童謡を作詞し、新民謡運動にも力を注いでいたが、流行歌作家に転身し、コロムビアレコードの専属になってからは、「ほんとにそうなら」、「夕日は落ちて」、「赤城しぐれ」などのヒット曲を作詞。昭和15年にはコロムビア社退社。一方で、作曲家に比べて低く置かれていた作詞家の地位向上に努め、大日本音楽著作権協会、日本音盤芸術協会の常務・常任理事を引き受け、著作権確立に生涯力を注いだ。
作曲は佐々木英(明治25年(1892年)4月16日〜昭和41年(1966年)1月13日)
五音階調の童謡ですね。
赤とんぼ
三木露風の作詞、山田耕筰の作曲による、日本の代表的な童謡の一つですね。三木露風が1921年(大正10年)に、故郷である兵庫県揖保郡龍野町(現在のたつの市)で過ごした子供の頃の郷愁から作ったといわれています。この詩に、1927年(昭和2年)、山田耕筰が曲をつけました。
青い目の人形
青い目の人形とは昭和2年「世界の平和は子供から」というスローガンのもと、アメリカの子供たちから日本に贈られた約13,000体(12,739体と公表されている)の人形です。元来、英語では「Friendship Doll」と呼ばれています。
これを訳して日本では「友情人形」とも称されることもあります。この「友情人形」を指して、「青い目の人形」と置き換えられた呼称が現在では広く定着しています。
当時の日本は、第一次世界大戦後の反動恐慌や関東大震災などによる経済不況が深まっていました。そして、まさに混乱のさなかにあったのです。
一方アメリカでも同じく、当時の経済不況の中で多くの失業者を抱えていました。
このため、低賃金でもよく働く日本人移民労働者への反感、人種的蔑視、さらに文化的な偏見も加わって日本人移民への批判が強まっていたのです。
この危機を両国民相互の理解と親善によって好転させたいと考えたのが親日家の牧師、シドニー=ルイス=ギューリック博士(1860-1945)、その人です。
彼はこのような状態を日米両国の人々のお互いの文化的理解が欠けているからだと考え、大正12年(1923)に「世界児童親善会」を設立しました。平和と友情」の精神を次代に向けて育てていくためには、子供の世代からの国際交流が必要だという考えに基づき、ひな祭りという伝統行事を持つ日本の子供たちに人形を通じて友情交流を図る「人形計画」が展開されたのです。
多くのボランティアがこれに参加し、この計画の推進に協力した人数は、全米48州(当時)でなんと260万人とも言われ、受け入れ側の日本では文部省(現在の文部科学省)が窓口となり、人形の配布を行うことになりました。
アメリカの子供たちの友情と好意に応え、日本からも人形を贈ろうという運動が起こりました。各都道府県から58体の人形が用意されることとなったのです。
人形を贈って頂いた小学校や幼稚園の児童に呼びかけ寄付を募り、答礼人形はクリスマスに間に合うように1927年(昭和2年)11月に日本を出発しました。 答礼人形は1927年(昭和2年)11月25日サンフランシスコに到着、12月25日にはシカゴにも到着した。12月27日には、ワシントンのナショナル シアターで公式の歓迎会が催され、大いに歓迎された。その後、この答礼人形をきっかけに、全米各地でひな祭りにちなんだ「人形祭り」が開催されているのですよ。
インディアナポリスに到着した答礼人形
戦争へ突入
日本とアメリカはこうした人形を通しての交流があったにもかかわらず、次第に険悪な関係となっていき、昭和16年、太平洋戦争へと突入します。
人間同士の憎しみ合いは人形へもその牙をむき、青い目の人形は敵国人形として竹ヤリでつつかれたり、殴られたり、しまいには軍部から全国各学校へ焼却命令が伝達(昭和20年)され、そのほとんどが焼かれて灰塵(かいじん)となる憂き目にあいました。
貧富の差、都市と地方との格差
昭和2年の給食が食べられていた時代、都市部と地方との格差は現代と比べ物にならないくらいに大変大きいものでした。昭和農業恐慌がその後、起きています。
昭和農業恐慌
昭和農業恐慌(しょうわのうぎょうきょうこう)とは1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開。単に農業恐慌(のうぎょうきょうこう)ともいう。
昭和5年、当時の物価は20~30%下落していますが、農産物の物価の下落はひどかったのです。米は半値以下、繭は3分の1以下になりました。
東北地方の冷害・凶作
そして、その後、昭和6年(1931)、昭和9年(1934)と東北地方に冷害や凶作が起きます。
昭和7年当時、農家の1戸平均の借金は840円で、農家の平均年収723円を大きく上回るものでした。
農村では学校に弁当を持って行けない 「欠食児童」や「娘の身売り」が続出、一家心中も多発し、社会問題となっています。
東北地方の農村疲弊は、この時期の最大の社会問題の一つとして取り上げられました。食堂列車から投げられる残飯に群れる子供達の写真や、家族の困窮のための「婦女子の身売り」の悲話は、東北農村に国民の関心を集めることになったのです。
昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、村内の15歳から24歳までの未婚女性467名のうち、25%にあたる110人が家族によって身売りを強いられたといいます。警視庁の調べによると、昭和4年の1年間だけで東京に売られてきた少女は6130人でした。
大根をかじる子供 欠食児童
また、貧しいのは農村だけではありませんでした。口減らしのために農村から都心に働きに出たが、思うような仕事につけず、まっとうな生活ができない貧民は激増していたのです。
戦前の日本では、都市部の多くに「貧民街」があったのですよ。
東京の貧民街
- 深川
- 浅草
- 芝
- 小石川
- 下谷
- 京橋
- 麻布
- 牛込
- 本郷
- 四谷
- 神田
- 赤坂
貧民街では人々は非衛生的で狭い長屋などに住み、残飯などを食べて生活していました。当時は兵営や軍の学校ででた残飯を買い取る業者がいて、その業者が量り売りしているものを買って食べるのです。このような残飯買い取り業者は、昭和5年の時点で、東京市内に2軒もあったというから驚きです。
この絶望的な貧富の格差により、社会の不満が溜まり、その不満を解消してくれる存在として軍部が台頭していったのですね。
日本で、地方と都市部の格差が少なくなるのは、なんと1970年代半ばまで待たなければいけませんでした。
この時代、この給食は食べられました
\弘前のアップルパイ・美味しいです/