「貧すれば鈍すると、思い違えて大きな間違いが出来るものじゃ。おおそうじゃ。自惚(うぬぼ)れながら梶原源太はわしかしらん」
う~ん、名セリフは耳に心地良く、心に響くものだなあ。一日オフの日があったので好きな歌舞伎を見に行った。「芸術祭十月大歌舞伎」。ちょうど僕の東京の定宿は歌舞伎座の近くにあるので、歌舞伎好きとしては嬉(うれ)しい。

この日の演目「恋飛脚大和往来」を見るのは二度目だ。上方和事らしくストーリーがはっきりしていて、ちょっと頼りない二名目が出てくるのも親しみやすい。柔らかな上方ことばも特徴の一つ。原作は近松門左衛門の「冥土の飛脚」。恋のために金を横領し、死罪になった実際の事件を元にしている。バイロンの言った言葉に共感するな。「事実は小説より奇なり」
こういう日本の芸術に接する時には、僕らはそれだけで説明もいらぬ文化的背景を持っていると感じる。歌舞伎を見る度、「こんな感じで西洋の文化芸術がわかったら…」と、ついため息が出る。

歌舞伎座にはたくさんの外国人も観(み)にきている。ちょうど僕の隣にも若い外国人のカップルが歌舞伎座の狭い椅子(いす)に窮屈そうに座っていた。彼らはイヤホンガイドといって、FMで英語の解説を飛ばしたものをイヤホンで聴きながら観ている。しかし解説があったからといって、どこまで舞台を感じる事ができるのだろうか。そしてこの反対を思う。僕らはどれだけ西洋のものが分かるのだろうか。作り手側の僕は、背筋が凍る思いがする。
この日の演目では、細かいディテールに作者の意図が感じられた。恋人たちは西の方へと逃げる。これは西方浄土へ向かって、彼らが死に走っているという悲しい結末を暗示している。浄土思想、つまり仏教がベースとなっている。オペラや西洋演劇でも、もちろんこのようなディテールは彼ら流に細かく作られている。特にギリシャ神話や、キリスト教がベースになっているので、ここの理解は外せない。
僕は西洋音楽の指揮者であり、その上活動範囲は欧米が殆(ほとん)どだ。西洋の文化芸術の本質的な理解は不可欠である。音楽の勉強そのものよりも大事だと感じるときがあるくらいだ。しかし感性ではやはりバックグラウンドがないので、感じきれない部分が多いと思っている。だから、必死になって勉強するしかない。
最後の舞台。白く雪の積もった竹林の中を恋人たちが去って行く。隣の外国人のカップルも「オ~」と感嘆している。文化や国境を越えた、美しい演出だ。

難しいことを書いてしまったついでに、もうちょっと。芸術の目的は何か。それは「人間とは何か」を追求することだと思っている。その点では西洋も東洋も同じ。そこは救われている。人間の本質を問うのだ。変わらぬ本質の共通点で共感したい。
そこで、最後に、「恋飛脚大和往来」を現代に映画化した「浪速の恋の物語」の中の名セリフ。
「いまは金が仇(かたき)の世の中でありんす」

2007/11/11
エッセイについて
これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/
\珍しい曲をたくさん収録しています/
\ショパンの愛弟子・天才少年作曲家の作品集・僕の校訂です!/
\レコーディング・プロデューサーをつとめて制作しました!/