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佃田、大和田両村の江戸移住
佃田、大和田両村の江戸移住については、ふたつの説があります。
- 天正一八年(1590年)
- 慶長年間(1596〜1615)
これは当初、天正一八年に森孫右衛門が漁業者6名をともない都合7名で江戸に渡り、その後本国との往来が続いたと考えられます。
その後、慶長一七年(1612)までに前記7名(森孫右衛門と漁業者6名)を含む佃村26名、大和田村7名と住吉神社宮司1名を加えた34名の移住が順次図られたと想像できます。
江戸名所図会より
神田の町名主斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)の三代が編纂し、天保年間(1830〜1844)に出版された地誌「江戸名所図会」の佃島の項に孫右衛門らの移住が詳しく記されています。
「安藤、石川両侯の藩邸ありし頃は、いまの小石川網干坂(あみほしざか)、小網町(こあみちょう)、難波町(なにわちょう)等に、旅宿していたりしとなり。難波町にいまも、六人川岸(がし)というところありて六人網と号(なず)けて専ら用いるとなり。しかるに寛永年間、鉄砲洲の東の干潟百間四方の地を賜はり、正保元年二月、漁家を立て並べて、本国佃村の名を採(と)りて、すなわち佃島と号(なず)く」
安藤(対馬守)は「佃島漁民に与えられた特権1」に書かれているように神崎川渡船を命じた人物です。
天正年中、恐れながら家康公御上洛の折、多田の御廟、住吉神社に参拝されたが、神崎川を渡る舟がなく難儀された。そのとき安藤対馬守が田村名主の見一孫右衛門に命じて、かれの支配する船で無事に川を渡ることができた。
江戸においても漁民らの庇護者だったのだったと考えられますね。もう一人の庇護者、石川八左衛門政次(石川大隅守)は、海上警固の御船手頭で、隅田川河口の鎧島を拝領して、そこを石川島と名づけています。
江戸へくだってきた佃村・大和田村の漁師一行が、江戸で最初に仮住まいしたのが小石川の安藤対馬守重信の屋敷と考えられます。
そして、石川八左衛門政次(石川大隅守)邸にも分宿して、毎年12月から翌年2月まで、シラウオその他の交じり魚を毎日幕府に献上しました。この安藤・石川両氏は二人とも家康の信任が厚く、家康の命により彼らを預かることになったのです。
1613年(慶長18年)、この安藤対馬守の屋敷小網町に移ったようで、漁師たちもそこで仮住まいしたと推察されます。その後日本橋小網町の船手頭(ふなでがしら)石川大隅守の邸内に移っています。つまり佃島の漁民たちは高待遇で、安藤・石川両氏の世話になったのです。そして、小石川網干坂、小網町、難波などに旅宿していました。
難波町には今も六人河岸というところがあります。難波町六人河岸の由来となる六人網は、シラウオ漁に用いた漁法で、3人ずつ2艘の船でおこなった一種の小型旋網漁です。
1613年(慶長18年)、幕府御用掛(がかり)として江戸湾近辺での自由漁業を願い出て許可されました。彼らは特権的な漁業権を手に入れたのですね。
漁民たちはその見返りとして、幕府への御菜魚の納入、将軍御成先での漁の実演、鷹狩り用に使用する鷹に与える小鳥や小動物に与える小エビ、小ウナギの納入、出水の際の船人足の派遣などが義務付けられましたのです。
寛永年間(1624ー1644)、武家地への町人の居住が禁止されました。そうなると武家地に住まいしていた漁民たちは引越しをすることになったのです。
石川氏が拝領した隅田川河口の島(石川島)の南続きの干潟(約8500坪)を賜りました。
漁民たちは江戸移住を完了してから18年目の1630(寛永7年)に、その頃江戸向島と呼ばれていた鉄砲洲前の干潟百間四方を拝領します。そして、正保元年(1644)2月に造成が完了したので移住し、故郷佃田村にちなんで佃島と名づけました。
ここで特筆すべきは、佃島造成が漁民たちの手でおこなわれたことです。これには隣接する石川島にあった小山を切り崩して地所をつくったのですね。漁の合間に休むことなく造成し、10年以上の歳月をかけて、1644年に島が完成しました。
名所江戸百景 第四景「永代橋佃しま」
翌年1645年、佃の渡し舟が始まり、翌々年には佃島に住吉神社が遷座しました。
そして、その5年後の1649年(慶安2年)、佃島には戸数80軒、160余名の漁民が居住するに至ったということです。
築地本願寺の再建
漁民が島ひとつ築造したのは驚きです。そして、彼らのおこなった大工事はこれだけではありません。
浅草横山町にあった西本願寺別院が明暦の大火で焼失したとき、門徒であった佃の漁民たちは寺の再建に尽力してます。幕府から鉄砲洲南側の海を与えられた本願寺ですが、佃島漁民を中心とする人々が土や砂を運び埋め立て築地一円の土地作ったのです。
1858年(安政5年)に歌川広重により描かれた「東都名所 築地西御堂之図」
かつて本堂は南西向きに建てられていました。現在の「築地場外市場」のあたりに塔頭58ヶ寺が並んでいたのですよ。
伝えられた逸話によると、当時の佃の人々の中には、自分の土地を売り払って金に換え、それを築地本願寺に寄進した方々が多くいたそうです。
大火の翌年の1658年(万冶元年)に仮御堂が落成しました。その後、埋立てが進むにつれ、子院や新たに開創した寺など58ヶ寺が門前に集まり寺町を形成したのです。「西本願寺別院」は1679(延宝7)年に再建、「築地御坊」「築地門跡(もんぜき)」などと呼ばれるようになりました。(現在の建物は1934年に再建されたものです)
明治時代の築地本願寺
築地本願寺和田堀廟所に保政親分こと俠客金子政吉氏(1857〜1934)の建てた「佃島祖先伝来之碑」があります。「明暦大火後佃島二近キ葭生地ニ寺礎ヲ築キ土工ヲ起シ、延宝年中完成セリ……」と記されています。これは、佃の漁民は土木、建築に並々ならぬ技術をもっていたことがわかりますね。金子政吉は、築地本願寺が関東大震災で焼失した際に、数多くあった佃島漁民の墓地を杉並にあった陸軍省火薬庫跡地へと引っ越す仲介をしました。
現在の築地本願寺
シラウオ漁
孫右衛門らが江戸で網を引き始めた頃、ある日、雪のような小魚がかかりました。
初めて目にする魚で、よくみると魚の頭に「葵」の紋があらわれています。これは御殿様の紋所だ!驚いて届け出ると、安藤対馬守、「これは不思議」と首をかしげて、事の次第を家康に伝えたのです。ところが、家康公は「この魚ならよく知っている」といいます。「余が三河にあるときに漁師どもが食膳に供してくれたものだ。ゆくりなく(偶然に)江戸において漁を見たのはまこと吉兆なり」とたいそうよろこんだそうです。
以来家康在世中はこの魚、シラウオを献上品のみに限る御留(おとめ)魚(うを)としたそうです。
おそらくこれは、シラウオの価値を高めるつくり話でしょうね。
江戸中期の国学者 柏崎永以が延享三年(一七四六)に著した随筆集『事跡合考』にもこんな話が出てきます。
「江戸表の白魚は、神君の御指図にて、尾州名古屋浦の白魚を御取寄せ候て、まかせられしもの、いまに至りて生成すと云々」。
家康公の命により、尾張からシラウオを運んできて、隅田川に放したそうです。環境が変わるとどうなるのでしょう。そう簡単だと思われません。
ところで隅田川筋の浅草周辺や、下総稲毛川の辺では、在地漁民がシラウオ漁をおこなっています。それらは献上品として京橋白魚橋際の白魚屋敷に納められました。後には白魚役というのもつくられます。それだけシラウオは大事にされていたのですね。
「白魚役由来書」
「白魚役由来書」というものがあり、家康が鷹狩りのときに浅草川(今の隅田川)で漁師がシラウオを献上したのがきっかけとなり、それ以降シーズン中はシラウオを毎日献上するように命じられ、それに対する褒美として毎年3両が与えられたということです。「白魚役」には最もいい漁場である隅田川の浅草言問橋から河口まで独占的にシラウオをとる権利が認められたようです。これは、佃島の漁民とは違う人々ですね。
この在地漁民と個漁民とのあいだで紛争が起こった
佃島の移住してきた漁民と元々江戸にいた漁民の間で争いが起きました。
佃の漁民は在地漁民との争いに勝利します。そして、慶長一八年(1613)に佃の漁民に次のような漁業特権の免許状が下付されるのです。
「此網引江戸近辺之海川ニ於テ、網掛ケ候事相違有ル可カラズ候 但シ浅草川稲毛川御法度ノ場ニテハ、引ク可カラザルモノ也」
この免許状は明治初年まで佃島で大切に保管されていたというからいかに大事にされていたかわかりますね。
さらにの漁民は、国許の関西における自由漁業も願い出て、これも認められたのです。これはすごい特権ですね。
佃漁民はシラウオ漁にとどまらず、江戸内海のどこでも自由に漁をすることができるようになりました。そのために周辺の浦々とは何度も漁業紛争を起こしているのです。そうですよね、周囲の漁民としては、高度な技術を持った佃漁民が来られたら、従来の漁民はたまりませんね。
佃漁民は、紛争が起こるたびに、この幕府御墨付の証文が持ち出し、「お上の許可を得てるぞ!」と、つねに勝訴になりました。
佃島漁民にはやっかみもあり、彼らは孤立化した
佃島漁民は下付金もたびたび交付されていました。このように幕府の厚遇もひとかたでなかったのです。それゆえに周囲の漁民の日頃のやっかみは大きなものでした。周囲との軋轢から佃島は江戸前漁業の特殊的存在として孤立していきました。
佃漁民の立場からすれば、江戸の自由操業は認められた権利です。そして自分たちこそ漁業の先駆者という自覚もあったと思います。
網入れに反対されるなどけしからん!という感覚でしょうか。しかし、周辺漁村にとっては漁場を荒らされるに等しい迷惑千万な行為に映りました。
国許の摂州でもトラブル?
国許の摂州田村も、瀬戸内海や讃岐に出漁し、御墨付をふりかざして地元漁民と衝突しているのです。この幕府からの免状はよほど効力のあるものだったのですね。
江戸、本国ともに佃漁民はパイオニアとして手本にもなったし、またトラブルメーカーとして敬遠もされるという両面性がありますね。
漁民の隠密行為!?
漁民らが内海警固の拠点となる石川島に隣接する佃島(当初は干潟)を拝領したのは偶然ではないと考えられます。
安藤、石川両氏の指揮のもとで海上偵察任務をおこなっていたことは十分に考えられるのです。
「月も朧に白魚の篝も霞む春の空冷てえ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと……」
歌舞伎「三人吉三廓初買」の有名な台詞そのままに、11月から翌年三月まで毎夜 篝火(かがりび)をたいてのシラウオ漁は、冬の江戸の美しい風物詩でした。しかし、かつては漁に姿を借りての海上監視任務はあったことはよく知られた話なのです。
『三人吉三廓初買』(さんにんきちさ くるわの はつがい)は、安政七年 (1860) 正月、江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称『三人吉三』。世話物、白浪物。二代目河竹新七(黙阿弥)作。全七幕十三場の長編。3人の盗賊が百両の金と短刀とをめぐる因果応報で刺し違えて死ぬまでを描いた物語。初演時はあまり評判にならず、30年ほど経って一部の筋を省略し『三人吉三巴白浪』(さんにんきちさ ともえの しらなみ)という外題で再演された。再演時には大評判となり、以後歌舞伎の代表的な作品の一つとして、今日でもよく上演される人気作品となっている。
しかし、寛永九年(一六三二)に向井将監が海賊奉行となると、霊岸島に船見番所がつくられて、船改めが公的におこなわれるようになりました。そうなれば漁民に海上監視をやらせておくのも不都合ということになって、これ以降、佃の漁民たちは漁業に専念することとなったのです。
続々と漁業者が来た!
摂州田村の江戸移住をきっかけとして、文禄から慶長の頃(1592 – 1615)に関西漁民が続々と江戸へ出漁した。
深川八郎右衛門
そのひとつである深川浦は、佃の漁民が移住をおこなった慶長一七年(1612)頃、別の摂津漁民によって開かれたとされます。場所は、現在の江東区永代、佐賀あたりです。そこでは、潮が引けば砂が露出する砂州が広がっており、 ここを漁場として幕府から漁業を認められていたのが深川の漁師でした。
言い伝えによれば、在地漁民が素朴な漁業を営んでいたところに摂津出身の深川八郎右衛門とその一党が参入して浦を発展させたということです。八郎右衛門は「深川」の開発者の一人です。
熊井理左衛門他八名
これとは別の由来が、先述の『日本漁業経済史(中巻二)』に書かれている。それによると紀州の熊井理左衛門他八名が、老中酒井雅楽頭忠清の下屋敷のあった浜御殿(現浜離宮)に居住して漁業を営んでいます。
そして、寛永六年(1629)には、深川八幡南西の潮除堤外の干潟を町屋にしたいと関東郡代の伊奈忠治(半十郎)に願い出て許可を得ています。
伊奈忠治(半十郎)
武蔵小室藩主・伊奈忠次の次男。通称は半十郎[1]。勘定方を勤めていたが、父の没後、跡を継いでいた兄・忠政が元和4年(1618年)に34歳で没した。しかし嫡男・忠勝が8歳の幼少であったため、家督は忠勝が、関東代官職は27歳の忠治が継ぐこととなった。関東代官となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山城を拝領していたため、兄の配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。
八名の名前をとって佐賀町、熊井町、諸町、黒江町、清住町、相川町、富吉町、大島町がつくられました。これを深川猟師八ヶ町といいます。翌七年より御菜魚として月三回、ハマグリ、カキ、シジミなど貝類を献上しています。(その後、「深川猟師八ヶ町」はその他の町も含まれるようになり、昭和の中頃まで漁業や海苔の養殖を続けていました)
佃の漁民は前述の通り、徳川家との深い関係がありました。それゆえに佃の漁民は幕府の多大な保護を受けたのです。その後にきた者たちは同じような漁業特権は与えられませんでした。
築地本願寺にある「佃忠兵衛」の遺徳を称えた報恩塔
前述のように、正保元年(1644年)、徳川幕府から鉄砲洲向かいの干潟を賜った摂津国佃島の漁師たちが築島したのが江戸の佃島です。その後、摂津国佃島の庄屋・森孫右衛門をはじめとする漁師たち約三十数名の割り当て所有となったのです。
2021年、11月築地本願寺を訪れました。そこで、供養塔のようなものがあり興味が湧きました。よく調べると、これは、初代名主・「佃忠兵衛」の遺徳を称えた報恩塔でした。前述のように、築地本願寺と佃島の住民には深いつながりがあります。
孫右衛門は摂津国で亡くなりました。弟の九左衛門は日本橋に魚問屋を開きました。その上で、従弟の忠兵衛(九左衛門の娘婿)が江戸佃島の長として「佃忠兵衛」を名乗り初代名主となったのです。忠兵衛は、佃島の造成や築地本願寺の再建に尽力しました。初代名主・「佃忠兵衛」は将軍・幕府の御用漁や佃島の開発とともに、明暦の大火で焼失した本願寺の替地埋め立てと御堂再建に大きく貢献しました。
本願寺は1617年に浅草近くに創建されました。当時は浅草御堂と呼ばれていたのですよ(浅草橋という近くに建てられたので、浅草御堂と呼ばれてました。東京の浅草の地にあったわけではありません)。そして、浅草御堂は1657年の「明暦の大火」とよばれる大火事で焼失してしまいます。幕府は再建を許そうとしました。しかし、本願寺との話し合いで本願寺側が、「海上を埋め立て移転したい」と申し出たということです。
その本願寺再建に尽力したのが、佃島の漁師たちです。それゆえ、築地本願寺には初代名主・「佃忠兵衛」の遺徳を称えた報恩塔があるということがわかりました。
「佃忠兵衛」の遺徳を称えた報恩塔の建立者
初代名主・「佃忠兵衛」の遺徳を称えた報恩塔の建立者は、佃島10代名主・森幸右衛門勝鎮(もりこうえもんかつしげ)(森九左衛門家が絶家のため7代目から家康下賜とされる「森」を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏であることも判明しました。1861年(文久元年)に建立したものです。