2024年3月、ウィーンに滞在しました。その間、ウィーンの「シシィ博物館」に行き、大変興味深い経験をしました。「シシィ博物館」はウィーンの中心地、「ホーフブルク宮殿」の中にあります。「ホーフブルク宮殿」は13世紀からヨーロッパで勢力を拡大したハプスブルク家の宮殿です。
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Contents
ウィーンの「シシィ博物館」とは
ウィーンのシシィ博物館は、「シシィ」の愛称で知られる皇妃エリザベートが実際に暮らした空間の中で、俗説に頼ることなく、オーストリア・ハンガリー帝国に君臨した皇妃の生涯を正面から解き明かそうとするものです。展示はエリザベート皇妃の私生活に焦点を当てています。宮廷の儀式に対する反逆、狂気に近い美貌への執着、高度なスポーツ能力、数々の旅、自作の感傷的な詩などが彼女の多彩な側面です。バイエルン王国での屈託のない少女時代から、思いがけないオーストリア皇帝との婚約、そして1898年にジュネーブで暗殺されるまで、伝説的なエリザベート皇妃の波瀾に富む生涯をたどります。
vienna.info より
営業時間:9:00-17:30 7月と8月は午後6時まで
費用:€17.50
姉のお見合いが自分に?!
皇妃エリザベート(1837-1898)は、南ドイツ、バイエルン王家の分家バイエルン公爵の娘です。
バイエルン公爵と日本語訳されるHerzog in Bayern(本来のバイエルン公:Herzog von Bayernでないことに注意)は、プファルツ=ツヴァイブリュッケン系ヴィッテルスバッハ家の一流及びその子孫に用いられた称号です。
皇妃エリザベートは、なんと15歳で皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)に見初められました。
母親同士がバイエルン王女であり姉妹でしたから、皇帝とは従兄妹の関係です。元々は皇帝とエリザベートの姉のお見合いだったはずです。しかし、まじめすぎる皇帝と姉の会話は進まず、無邪気な妹が花婿を射止めてしまったのです。
皇妃エリザベートの一生は波瀾万丈だ!
皇妃エリザベートの夫、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、極めてまじめで義務感の塊のような男だったそうです。皇帝は家族を愛していたにもかかわらず、結局、妻や息子を幸せにすることができませんでした。
皇妃エリザベートは、ハプスブルク宮廷の古く退屈な儀式、メディアに追いかけられるつらさが常に心の負担となりました。その結果、皇妃エリザベート(シシィ)は結婚してしばらくすると、心の病となり一生涯、拒食と過食を繰り返していたということです。
喘息もあり、肺病を恐れて転地療養に行き、旅行の楽しさに目覚めてしまったのです。以降、転地療養を理由に人生の後半は旅行ばかりしていたようです。これも批判の対象になったようですよ。
エリザベートの悲惨な最期
彼女の人生は悲惨な事件で終わります。1898年秋にジュネーブのレマン湖で客船にのりこもうとした矢先、暗殺されたのです。
イタリア人の無政府主義者にいきなり細く短い短刀のようなもので心臓を刺され、刺された事実に気が付かないまま100メートル近く歩いて倒れました。そして、そのままほどなくして息を引き取ったそうです。
皇女エリザベートの葬儀
皇女エリザベートの美
皇女エリザベート気品のある美しさ
皇女エリザベートは気品のある美しい顔立ちをしていたことで有名です。スタイルといい、顔といい、どこから見ても素晴らしかったと伝えられています。肖像画を見てもそれはわかりますよね。しかし、子に恵まれながら、皇女エリザベートはゾフィー大公妃との間に「嫁と姑」の軋轢があり、旅行に明け暮れる「放浪の王妃」とも呼ばれていました。
人前で笑わなかった皇女エリザベート
皇女エリザベートは歯並びが悪かったといいます。そのために人前で笑うことを嫌ったようですよ。一説によると、、義母であるゾフィー大公妃から、あなたは顔は美しいけれど、歯並びが悪い、歯が黄色いと言われたそうです。
シシィ博物館の展示品
たくさんの皇女エリザベートに関する展示品がありますが、印象に残ったものを取り上げますね。
エリザベートのデスマスク
なんと、シシィ博物館の入り口は「死」の部屋から始まります。いきなりですが、大変暗い雰囲気から始まり、訪問者を驚かせます。真っ暗な部屋にエリザベートのデスマスク(1900年 フランツ・フォン・マッチュという方が製作されました)が展示されています。
暗殺の場面
“いったい何が起こったのか?” がシシィの最後の言葉です。刺されたことに驚いたのでしょうか。1898年9月10日、イタリアのアナキスト、ルイジ・ルケーニがジュネーブで彼女をヤスリのような鋭い刃物で刺した時のことです。
シシィは転んでも立ち直り、侍女と共にモントルーに戻る船に乗り込んだのです。しかし、彼女はそのわずか2時間後に死亡しました。ルケーニは元々イタリアの王ウンベルト1世の暗殺を狙っていたのですが、王に会いに行くことができなかったので、「誰かを殺してみたいが、よほど有名な人物でなければならない」と思っていたところ、シシィがちょうどそこにいたので思い立ったのです。計画というよりは偶然のむごい暗殺事件でした。
皇女エリザベートの衣装
皇女エリザベート(シシィ)が、婚約式で着た素晴らしいドレスです。オリジナルは美術史美術館にあり、これはレプリカです。
1954年にハンガリー女王として戴冠したときのハンガリー民族調の衣装です。(シャルル・フレデリック・ウォルト製)
シシィの体型と運動器具
170cm 50kg、ウェスト50cmを生涯維持したそうですよ。
運動器具
器械体操用の運動器具があります。その当時、このようにして体型を維持するのって本当に稀だったと感じます。
フランツヨーゼフ皇帝時代の家族的ディナーの様子
さあ、これからこのブログの本題である、皇帝の食事風景を見てみましょう。
大規模な公式ディナーはもっとおおきなところで。規則によって、ごくうちわだけでも厳密なしきたり守られました。このテーブルも最も高貴なテーブルのしきたりに沿ってセットされています。
テーブルは常に豪華に飾られ中央には花や、果物、ボンボンを盛り付けた金メッキのセンターピースがおかれました。
銀の受け皿にはダマスト布のナプキンが芸術的に折りたたまれました。
食事ごとに別の器が用いられ、スプーンとデザートは磁器で供されましたが、他の料理には全て銀器が用いられました。銀のナイフ、フォークには双頭の鷲が見られます。
食事ごとに別のワインが供され、その都度グラスも変えられました。
緑のグラスにはライン地方のワインが注がれました。また皇帝一家の一人一人に専用のワイン容器、水入れ、塩入れがありました。
料理は暖かく保つため宮廷の厨房で作られた料理は温めて箱に入れて運ばれ、ディナールームの隣室で炭火で温められました。後にはガスコンロで温められました。
皇帝は中央に座りその向かい側が主賓の席で、さらに親族の序列身分に従って席が定められました。
女性と男性が交互に座り、隣の人とのみ会話が許されていました。
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料理は皇帝にも他の人々にも同時に給仕され皇帝はすぐ食事を始めました。皇帝がフォークを置くと当座の料理が取り下げられる取り決めだったので、皇帝は常に食卓の全員が食べるのを待ってナイフフォークを置きました。
ディナーには9品から13品の料理が供されて、時間は最大45分でした。コーヒーとリキュールは別の部屋で供され、紳士には喫煙が許されていました。
以上、シシィ博物館、そして皇女エリザベートの食卓の話題でした。