ことわざの「鰊(にしん)に昆布(こんぶ)」は、取り合わせのよいことのたとえです。
私たちのニシンの思い出としては、昔、函館に旅行に行ったときに「ニシンの刺身」を食べたことがあり、とても美味しく印象に残りました。 ニシンはサバと同じくいたみやすいので獲って直ぐのものしか刺身に出来ません。珍しいものを食べた!という思い出が残りました。
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ニシンで大儲け
昔は春ニシンの豊漁によって、なんと4月1ヵ月の労働で、漁師は一年の生活費を得たというくらいだったそうです。
「江差追分」の前唄に、こう歌われています。
江差の五月は 江戸にもないと 誇る鰊の 春の海
4月のニシン漁によって、5月は江差のもっとも好景気時な時でした。しかし今は、ニシンは幻の魚となり、盛時の様子はどこかに行ったようです。
1890(明治30)年頃には約80万トン獲れていたニシンが、1900年代の初期から減り始め、1955(昭和30)年には、ほぼゼロに近い箇所に位置しています。
注意:右の赤線のグラフは単位が違います。右端の数字をご覧ください。
昔のニシンは「北海道サハリン系群」と呼ばれるグループでした。これはグラフ左の部分の漁獲高です。近年になって獲られるようになったのは「石狩湾系群」というグループです。この二つの系群とは、それぞれ異なった生態を持つグループです。そして、別々に増減するのです。
この2つのグループは、産卵のために沿岸へ来遊する時期が異なります。
4~5月に沿岸にやってくる「北海道サハリン系群」は、回遊の範囲がとても広く、その分大きな資源になることが出来ます。それゆえに左側の昔の漁獲高は多いのですね。
2~3月に沿岸にやってくる「石狩湾系群」は、回遊の範囲が宗谷湾から岩内湾に限られているため、それほど増えることができません。
「石狩湾系群」は現在は2000トンとしても、最盛期の平均、800,000トンと比べて、0.25パーセント!もう無きに等しいです。
北海道でニシンが獲れなくなった理由を、一時期、土地のひとたちは、「潮の流れが変わったから」と言っていました。しかし、現在は「乱獲」などが原因とされています。
激減の原因としては海流の変化、海水温の上昇、乱獲、森林破壊などとする諸説があるが、解明されていない。しかし、1890年代から2000年代までの海水温と漁獲量の変化を分析したところ、北海道-サハリン系ニシンの資源量変動と、海水温の長期変動には強い相関があり、乱獲だけが資源量減少の理由ではないとする研究者もいる。
市場のニシンは?
現在、私たちが口にしている干物や数の子は、その殆どが輸入品です。
春に大群が押し寄せてくるなんていうのは、過去の話。もはや「春告魚(はるつげうお)」ではありません。残念ですね。昔、ニシンは春になると産卵のため大量に浜へ押し寄せることから、「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれていたのですよ。
ニシンの食べ方
北海道では以下の食べ方、保存方法があります。
- 塩焼き
- 塩ニシン
- ニシンずし
- ニシンを開いて日に干し「身欠きニシン」
関西のニシンそば
「身欠きニシン」を調理してかけそばの中に入れたのが、関西でおなじみの「ニシンそば」です。おそうざいの昆布巻きの芯は、身欠きニシンですね。
京都で有名なニシンそばのお店
1861年創業の「総本家 にしんそば 松葉」は、南座の西隣に店を構える老舗です。京都で「にしんそば」と言えば、松葉の名前が挙がるほどの有名店なんだそうです。実は、にしんそばは、1882年に二代目店主が発案したと言われています。今では多くのお店で食べることができますね。
ここのお店の「ニシンそば」は、そばの下に、にしんが隠れているのだそうです。にしんの旨味が染み出て、にしんそばの風味を存分に楽しめるからだそうです。
フナの焼き干しにしたものから
昆布巻きの芯は、本来フナを焼き干しにして煮しめたものだったそうです。
壬申の乱(六七二)の時に天武天皇の皇女が丸焼きのフナの腹の中に密書をしのばせ、父天皇に送ったのが勝利のきっかけになった故事によると言われます。『宇治拾遺物語』には、この消息を伝える歌が記されています。
いにしへはいともかしこし堅田鮒(かただぶな) つつみ焼なる中の玉章(たまずさ)
フナの腹の中に詰め込まれた密書が、いつのころからか昆布に取って代わりました。それがフナをほとんど食べない北海道ではニシンが代用され、地方によっては田作りも用いられました。田作りとは、ゴマメ(小さなカタクチイワシを干した乾物)を炒って、しょうゆ、みりん、砂糖などで作った甘辛いタレに絡めたものです。
取り合わせのよいこと
ことわざの「鰊(にしん)に昆布(こんぶ)」は、取り合わせのよいことのたとえです。
取り合わせのよいものは以下のように言われていますね。
- 鰊(ニシン)に昆布
- ドジョウにごぼう
- アユにたで酢
- フグにポン酢
- サバとみそ
- カツオにしょうが
- カキに酢
- 米のめしに塩ジャケ
- ニシンとウド
- 熱いめしに筋子
- タラに昆布
- ひじきと大豆
- 椎茸と昆布
- ねぎとマグロ
ニシンの語源など
ニシンとは
ニシンはイワシ科の魚です。分類としては以下です。長いですね。
顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区新骨亜区正新骨下区側ニシン上目ニシン目ニシン科ニシン亜科ニシン属
ニシンの呼び方
鰊(ニシン)という字は、東の魚ということでできました。これが「鰊」になったのです。鯡とも書きます。松前ではニシンは魚ではなく米だというところから「魚に非ず」を字にして鯡(にしん)とよんだようです。そして、春告魚ともいいました。
違う呼び方として以下のものもありますよ。
- カド
- カドイワシ
- コウライ(高麗) イワシ
- セガイ
- バカイワシ
アイヌ語でニシンを「カド」と呼び、その子だから「カドの子」転じて「カズノコ」となったという説があります。
肝心の「ニシン」は?
北海道地方では、ニシンをアイヌのよび名からカドと呼びました。この魚の内蔵を取り去って2本に割いて干しました。腹部の方の1本は肥料にして、背肉の1本をミガキ(身欠)と称して食用に供したのです。身を二つに割くという意味からニシン(二身)とよんだという説があります。
ニシンはどこで生まれるか
ニシンは北海道の西岸で生まれます。島の周辺を回遊しながら育っていくのです。2年目と3年目の夏には、東岸で夏ニシンとして漁獲されます。4年目と5年目の春には産卵のため大挙して西岸に近づき、これが有名な「春ニシン」です。
ニシンは夏になれば北上し秋になれば南下して翌春の産卵の準備をします。第6年以降同じことを毎年くりかえし、13年くらいまで生きるのですよ。しかし、7年以後は非常に少なくなることがわかっています。
大阪の人は、昔は夏の大掃除の際、お惣菜に必ず「鱇昆布巻」を食べたそうです。
天保(1830〜44)〜嘉永(1848〜54)ころ、江戸ではニシンを食べませんでしたが、京坂では自家で煮たり昆布巻にしたりしたようです。そのころから鰊昆布巻売りが街を振売りしていたということです。
以上、ことわざ/鰊(にしん)に昆布(こんぶ)の話題でした。