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火事の多い町・江戸
江戸は火事の多いところでした。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われているように、江戸は日々火災の連続する町だったのです。江戸で最初に記録された慶長6年(1601)の大火から、第15代将軍「徳川慶喜」が大政奉還した年の慶応3年(1867)までの267年間で何回大きな火事があったら想像できますか?
49回です!
- 同じ時期に京都だと、9回
- 大坂は6回
- 金沢は3回
これらの火事はあくまでも「大きな火事」ですよ。そのほかに小さな火事だと、もっとたくさん起こっています。その数は、、、
1798回!
江戸はまさしく火事の町ですね。
明暦の大火(振袖火事)
明暦3年1月18日(1657年3月2日)、悲惨な大惨事が起きます。それがこの明暦の大火です。3日間も燃え続けたのですよ。
明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)
これは江戸の火事の中では、最大の惨事です。諸説ありますが、約3万から10万人を超える死者が出たと推計されています。
この時代の江戸の人口は約30万人。3万人の死者であったら、10人に1人、10万人の死者であったら3人に1人亡くなったのですね。
ちなみに、首都直下地震でもっと広い首都圏という範囲で想定される死者数は、2万3千人です!
データはNHK 災害列島より
そして、1923年(大正12年)関東大震災の死者・行方不明者は約10万5千人です。そのうち、火災による死者は約9万2千人です。
自然災害との違いとはいえ、この明暦の大火の死者数は相当な数です。ものすごい被害だったということがわかりますね。
なんで明暦の大火は振袖火事?
この「明暦の大火」は「振袖火事」とも言われているのです。それは以下のような伝説に基づいています。
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
明暦の大火の火元はどこなんだ?
火元は山手の3箇所と言われていました。それは、本郷、小石川、麹町です。北西の風に煽られて、火が江戸の町を延焼していきました。そして江戸は大半を焼かれたのです。
3回の出火の経過は以下のようであったと考えられている。
1月18日未の刻(14時ごろ)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたことで逃げ場を失った2万人以上が死亡。
1月19日巳の刻(10時ごろ)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一帯に延焼し、江戸城は天守を含む大半が焼失。
1月19日申の刻(16時ごろ)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。
明暦の大火の焼失エリア
この図をみるといかに広範囲で火事が進んだか分かりますね。(千代田区史の資料から)
地図上北東に「吉原」(遊廓)が見えますね
吉原は、江戸時代の始め(元和3年(1617年)に葦(よし)が繁茂する湿地を埋め立てて造成されたことから吉原という名前がついたのです。しかし明暦の大火で焼失しました。この地図でも火災の真っ只中ですね。これをきっかけに39年間栄えた吉原遊郭は、浅草山谷へ移転するこになったのです。移転後の吉原を新吉原、移転前の吉原を元吉原と呼ぶのですよ。
西本願寺も見えます
現在の築地本願寺はもともと、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町にありました。この地図でも、浅草橋の南にありますね。しかし、この明暦の大火により本堂が焼失したのです。そして、現在の築地に再建されました。
明暦の大火の最初の火元に行ってみた
「扨も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。」
これは、明暦の大火を書いた「むさしあずみ」という本に書かれています。「本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より」と書いてありますね。
それでは本郷に行ってみましょう
まず地下鉄丸の内線本郷3丁目駅(町名変更で今は2丁目)で降ります。
ここは俗に「ほんさん」と呼べれている、東京大学赤門があるところですね。
古地図では、東京大学の位置は、「加賀中納言殿」と書かれている加賀藩本郷邸の周りです。ここでは細かく書くことを省略します。
本郷は実にたくさんの坂があるところです。歩いてみると江戸時代の坂がたくさん残っていて興味深いですよ。現在でも、本妙寺坂という名前は残ってます。
本妙寺のところに丸印をつけましたが、見えるでしょうか。
現在の本郷3丁目交差点、ちょうど加賀中納言殿の敷地の左下角あたりです。この写真で、左側に春日通りを歩きます。
右手に見えた本妙寺坂を下っていきましょう。
左側に老舗の「御菓子司 喜久月」が見えました。創業60年を超える老舗和菓子店です。
右手に文京区立本郷小学校が見えます。
いよいよ坂が見えてきました。
左手は文京区男女平等センターです。
本妙寺坂を下ります
菊坂との交差点を通過します。
菊坂を交差して、さらに直進、今度は登り坂です。
ありました!右側に「本妙寺跡」の看板。ここか、とジーンと来るものがありました。ここから出火して多数の江戸の人々が亡くなった明暦の大火に、、、、。
坂を登りきって振り返り、歩いてきた道を撮影。
長泉寺が残っているようです。せっかくだから訪れました。
新しい感じのお寺ですね。昔のものと続いているかわかりません。
高低差の多い都市・江戸
江戸は、台地側の山の手と低地側の下町とで構成されていました。山の手エリアは高低差のある複雑な地形形状から、山の手エリアでは坂道が多く作られています。大まかには、山手線の内側一帯が江戸時代の山の手エリアです。
低地の下町は、砂洲によりできた土地と梅を埋め立てた土地の開発が進められ、水の都と謳われた堀割(ほりわり/地を掘って水を通したところ)が巡る町を誕生させました。下町エリアは、北が浅草寺あたり、南が増上寺のある芝あたり、東は隅田川を超え、横十間川あたりまでと言えると思います。
このように、江戸は坂の町と水の町という二重性を備えた、世界的にも特異な町なのです。
明暦の大火で江戸城天守閣炎上
明暦の大火で、江戸城の天守閣もこの大火で焼け落ちます。これは江戸の心臓部ですから、統治者としても、民衆もかなりショッキングなことだったと想像します。
焼ける前の天守閣を持った江戸城です。徳川家光は寛永15年(1638年)に3代目の天守を築いています。この天守は、5層の地上5階、地下1階で、石垣と合わせた高さは、58メートル強あったそうです。58メートルだと15階建てのビルと同じくらいの高さですよね。その頃の建物としては突出して高い建物でしょうね。江戸の町からのあちこちから富士山と肩を並べるように見えたと思われます。
明暦の大火で焼けた天守閣はとうとう再建されることはありませんでした。本丸など御殿の再建にかかった費用は、なんと93万両。第4代将軍徳川家綱には代々引き継いだ遺産があったからできたのです。その遺産が423両。その2割を使って明暦の大火後の御殿を再建したのです。
明暦の大火後の救済
明暦の大火で大きな被害に遭った人々への救済措置が施されます。旗本や御家人には拝領金。大名に下賜金。町人にも救済金が与えられました。
こういう出費で幕府は約16万両使ったらしいです。大火が起きるたびに幕府はこのような救済を行いました。しかし、このようなことを続けていると財政が悪化します。それは町人も一緒で、町人用の経費のうち、もっとも多くの割合は、防火、消化に関連する支出でした。
明暦の大火の経済効果
ネガティブな面だけでなく、大火は経済効果を産みました。大火で焼失した江戸を再建するために、全国の物価変動や景気動向に影響するほどの資材調達、そしてそのための莫大な資金が動きました。
皮肉なことですね。多発した火事のおかげで江戸は経済が回っていたのです。
ここで、河村瑞賢(元和4年2月15日(1618年3月11日)– 元禄12年6月16日(1699年7月12日)の大変興味深い話が残っています。
河村瑞賢は、元和4(1618)年に東宮村(現:南伊勢町東宮)で生まれました。13歳で江戸へ出たのちは、車力として生計を立てていましたが、川に流されたお盆のお供え物の野菜を集めて、漬物を作って販売した話は有名です。
河村瑞賢は大火を商売のチャンスに変えた人物です。明暦3年(1657)1月18日、「明暦の大火」または「振袖火事」と呼ばれる火事が発生しました。
江戸のほとんどを焼きつくし、10万7千人以上の死者を出す大惨事となりましたが、瑞賢はこのとき燃えさかる自宅をうち捨ててありったけの金をふところに入れると木曽福島(長野県)に向ったのです。
江戸に大火が起ったニュースはまだ木曽に届いてはいません。瑞賢は木曽の木材を一手に監理していた山村家を訪れます。
山村家の庭先で遊んでいた子供を見た瑞賢は所持金の中から小判を3枚取り出して穴をあけると紙こよりを通し、子供におもちゃとしてあたえたのです。
そして山村家の主人に面会を乞い、あるだけの材木を買いたいと申し出ました。主人は一瞬警戒しましたが、子供にあたえた小判を見てすっかり瑞賢のことを江戸の大商人だと思いこんで、信用してしまったのです。
しかし、瑞賢のふところには最初から10両しかなかったのですね。そのうちの3両を子供にあたえた大バクチだったのです。このバクチに勝った瑞賢は、まんまと買い占めに成功します。そして、すぐさますべての材木に「江戸河村十右衛門用材」という刻印を押してしまったのです。
まもなく江戸の復興のための材木を求めて江戸の材木商たちが木曽に殺到しました。しかし、どこをさがしても買える材木はありません。あるのは瑞賢の刻印をした材木ばかりだったのでした。彼らはついに瑞賢から材木を買うより他に手段はないことに気がついたのです。
このようにして瑞賢は巨利を手にしたのでした。
広小路の建設・明暦の大火をうけて
明暦3年(1657)本郷発の「振袖火事」は、数ある江戸の火事の中でもとても大きいものでした。
このような大火の対策のために「広小路」が作られました。
「広小路」は、火災の延焼を防ぐために、道幅を広くした明地(あきち)です。江戸橋広小路、中橋広小路、両国広小路、下谷(上野)広小路、浅草広小路などがあります。
その中でも両国広小路、下谷広小路、浅草広小路は、三大広小路と呼ばれています。
両国広小路
大橋の東詰と西詰の広場一帯を合わせた名前です。つまり橋の両側のたもとですね。万治2年(1659)に大川(隅田川)に「大橋」が架けられました。これは西の武蔵国と東の下総国をつなげたので、二つの国をつなぐ「両国橋」と呼ばれました。これは通称です。
橋の西側は元柳町、新柳町、吉川町、米沢町がありました。そして、橋詰の広場では、午前中は近在の農家が野菜などを商っていました。午後になると、小屋掛けの見世物で賑わったそうです。
現在の両国橋西詰
橋の東側は、尾上町、相生町、本所本町、松坂町などで、大山詣り、富士登山の水垢離場(みずごりば)や、回向院の出開帳や相撲興行で賑わっていました。「向こう両国」と呼ばれていました。
橋の東側から橋を望む
下谷広小路(上野)
上野は、現在の上野公園の一帯から谷中、日暮里にわたる丘陵地帯です。古くは「忍ヶ岡」といいました。王子の音無川からの流れが上野台地と本郷台地に挟まれた間を抜けて「不忍池」になりました。
下谷は、台地の下という意味です。そう上野台地のことですね。坂本、金杉、三ノ輪、千住への奥州街道の裏道として開けました。また筋違御門(すじかいごもん)から三橋にいたる道は、将軍が寛永寺への参詣(さんけい)に通るので「御成り道」といわれていました。
道路が広く作られて「下谷広小路」と称されました。両側には武家屋敷があり、「此通御徒士町ト云(このとおり おかちまちという)」と古い切絵図に書かれています。この広小路には「いとう松坂屋」の呉服屋などの店が並んでいました。今でも松坂屋はありますね。
現在の上野広小路
交差点名標識に「上野広小路」と地名が残っていますね。
浅草広小路
金龍山浅草寺の雷門の広場を「浅草広小路」といいました。東は吾妻橋(大川橋)へ西は田原町の東本願寺へ通じます。浅草寺への参道には二十軒店(たな)という妙齢の美人を置いた水茶屋がありました。背後には猿若町の中村座、市村座、森田座の歌舞伎小屋がありました。
現在の浅草広小路
有名な浅草寺の雷門前です。今も人の往来が絶えず賑やかなところです。
まとめ(明暦の大火の跡を歩いて)
江戸の都市形成に大きく影響した明暦の大火。その出火元とされているところ本郷、その後できた火除地の「広小路」を歩きました。江戸の町が大火に影響され変化した様子を実感できました。こういう散策で必要なものは、、、古地図、そして健脚です!
明暦の大火は江戸の人々の生活にさまざまに影響します。江戸の外食文化も明暦の大火と関係しています。リンク先をご覧ください。